第一廻

蓮の花と蜘蛛の糸

地獄の天井から、一筋落ちてくるものがある。
白く輝くものだ。上質な絹糸よりも輝くそれに、男は手を伸ばす。
たよりない、一本の糸。
縋ってしまう。まさかとは思う。しかし男に地獄は辛すぎた。 罪状が、ではない。男は弱い人間だった。胸を張って生きる ことができないのだ。そして犯した罪故に地獄に落とされる。 改心するなり耐えるなりすればいいと言うものでもないが、 男は悲鳴を上げていた。
それだけならばまだ普通だった。
体を焼かれ、食われ、どこまでも苛まれ。それで悲鳴を漏ら さぬ人間などいない。
男はつま先で立ち、手をのばした。岩のついでに人間の頭を 蹴って、やっとのことで糸に指先が触れる。
躊躇わしいほど細い。掴んでは切れてしまわぬだろうか 。それに、掴んだどころでどうするのか。
しかし男はすべてをかけて糸を掴んだ。考えなしな人物なのである。
幸運なことに、糸は強かった。男の並の体重に耐えた。漁に使 う網でさえ軋むものなのに、その糸はきりりとも音を立てなかった。
しめたもんだと、男はほくそ笑む。
光輝く糸が薄汚れた手のひらに吸いつく。どんな肌をした女でもこれほどのものはねえ、 地獄に堕ちた原因と知っているのかそうでないのか は自覚さえ分からないが男は一人で頷いた。
体が軽くなる。糸にふれた先から暖かくなっていく。寒くてひもじい冬、 贅沢に湯船へ飛び込んだらこんな心地だろうか? 傷が癒えてふさがってゆく。これに性的な快感があれば などと考えながらも糸をはなさない。
試みに糸から右手をはなし、頭一つ分上を掴んでみた。
無音。
わずかに揺れるものの、差し支えはない。
ならば上ってしまおう。男は周りを見渡して獄卒が少ないのを確認した 。気づく前に、応援がくる前に届かないところまで行ってしまえばいい。 思い切りはいい男だった。
でこぼこの大樹を上るように楽だった。ゆっくりとではあったが、 疲れもなく地上から遠ざかっていった。
罪人たちが下から見上げて驚いている。なかなかのいい体験だ。 できることなら生きている間に、こんな胸クソ悪い場所に来る 前にしておきたかった。
元いたところを見てみれば、黒いものが集まっていた。 罪人たちが上る順番を争っている。血の池に落とされるもの 、針の山に突き飛ばされて何度目かの絶命をするもの。
高いところから見てみれば、なんてくだらない。
もうなにもしなくとも視界が変わってゆく。
ざまあみろ。
するすると糸が引き上げられる。どんどん景色は変わってゆく。 赤と黒の地獄から、陽光まぶしい世界へと。

引き上げられてであったのは一人の人物だった。 少女であろうか少年であろうか。男としては少女であって欲しい 美貌の人物は微笑んだ。
「乙でーす。大変だったでしょー?イタいしさ、あれ」
わりと気さくな性格らしい。
「こっちはまっちゃん。アンタのことを見てすくい上げたんだよ」
なんだ、やはり美少女はやさしいらしい。これでヤラせてく れたら菩薩さまなのに、というかがわしい妄想を脳内で繰り広 げる男にまた笑みを見せるまっちゃん。
沢山のドクロをネックレスにするという 残念なファッションセンスの持ち主だったが 、男をいい気分にさせるには十分だった。
「ね、案内したいところがあるんだけど、行く?」
「なんだそれ、天国にでもつれていってくれるのか?」
性的な意味で。
「そ、天国」
口角をつり上げてまっちゃんは笑う。 それになぜか違和感は感じなかった。
「さあ、こっち。天界はスゴいよ」
腕を引いて、まっちゃんは笑った。つられて足がおどりだした。

そこは、花咲乱れる楽園だった。
澄んだ空気が肺の中に満ちていく。。
見れば、池には蓮の花が咲いている。
まさか、花を美しいと思う時がくるなんて思わなかった。よく 見てみれば、なかなか鮮やかきれいだ。見とれている男に声がかかった。
「いらっしゃいまし、ここが天界の道にございます」
美しい衣、髪には赤い花をさしているきれいな顔をした・・・・・・
って、まっちゃんか。
「てへ、天女のコスプレvどう、美少女っぽいでしょ」
衣のすそをつかんでくるりと一回転する。貞女とも娼婦ともちがったしぐさで、どこかおとぎ話の妖精の様だった。
「一緒に見てまわろうよ。きれいなもんしかないよ、ここ」

まっちゃんに連れられて見たのは、花浮かぶ池、 金銀瑠璃をあしらった小舟、黄金の屋根の大きな屋敷。 そんな極楽の風景だった。
くすみのない輝きオンリーな世界。
男は彼らしくなく夢中になった。どんな金持ちならこんな世界へ行けるだろう? 偶然がどう重なってもこんな景色を描ける者はいない。 生まれの貧富、才能の有無、運、人を隔てる壁はいくらでもあるが、 この絶景はたとえ幼児であろうと浮浪者であろうと楽しめるものに思えてならない。 どんな女の裸体よりも、盗んだ黄金よりも、耳にした美味よりも、 人を刺す感触よりも、無様な悲鳴よりも、男の心、体をとらえてやまない。
磨かれた銀は見る度に違った風景を映し出しておもしろい。
一人の天女が池の水を半透明の宝石の杯にくんで渡した。 いままでのどんな酒にもなかったうま味と、どんな清流に も叶わない冷たさ、清潔さ。ただの水までもがこんなにうまい。
ほかにも天人たちに誘われて賢人の(男は知らないひとだっ たが)玉言を聴きにいったり、小舟に揺られて月を見たりと、 男はまっちゃんとともに天を楽しんだ。
一日はこの世界ではとても長かったが、まだまだ天を味わい 尽くすことはできない。天女は東の館を指さして、明日はそ こへ向かってみたらと教えた。何十年もかかって彼女たちは 天での楽しみを知る。いままで来たことがない者は、はやく ここに来るべきだったと思うものらしい。男もそんな気がしてきた。
明日は東、明後日はそのまたむこう。勧められるがまま に男は世界を楽しむことにした。
短い距離ではあったが、移動する。歩くことすら楽しい。 空気は甘く、風は心地よい。散歩だけでも周りにある物が目を楽しませる。 途中、誘われる。端正な美味を味わう。あいさつをしてまた歩き出す。
気がつけば汗をかいていた。男はふうと息を吐く。
「あ、汗かいちゃった?地獄からきたもんね、しょうがないよ」
傍らにいたまっちゃんが天女に渡された花を折って男の髪にさそうとしていた。
「天道長いからね。これはまっちゃんからの贈り物です。綺麗な花で、まさに天の花!ってかんじでしょ。 たぶんモテるよ」
このよくわからんまっちゃんとやらにも世話になったものだ。地獄か ら男をすくい上げてこんなすばらしい世界に案内してくれた人物だ。 今の男なら、素直な感謝が出来る。男は気持ちよいと感じながら礼を言った。
「ありがとうよ、まっちゃん」
「いいんだって。これはまっちゃんさまの趣味なんだから。こうやって ると、すごく楽しいからさ」
まっちゃんは笑った。天女コスのまま、くるりと背を向けて門をくぐる 。男はちいさな背中が見えなくなるまで見ていた。
さあ、まだ時間は山のようにある。心地よい疲れで汗が流れ た。どこで何と触れたのか、衣の裾が汚れてしまっている。
が、たいしたことではない。まだ、天の快楽は味わい尽くしていない。次は何を見てみようか。
男は見えなくなったまっちゃんとの再会を楽しみにしながら 、天の奥へと向かうことにした。


[天道]
この世のいっさいの苦しみから解放される・・・・・・わけないじゃんばーか
[魔羅辞典より抜粋]


2012/09 : 加筆修正

2013/11 : 加筆修正