魔術入門

モクジ

  カニバサミ編  

魔術師が彼らを見たら「不審者め!」と火を出しそうだった。
 しかし彼らにとって幸いなことに、魔術師は気付いていなかった。

 すごい豪邸だ。
 しかし先日見た貴族の豪邸よりは金がかかっていないと見える。。クシューミ・アクワ氏の家は、屋敷と言うより城だった。白銀の壁、屋根は瑠璃。金の門の上には水晶の像。像は絵描きステルニイ原案、彫刻家のゲーズルが磨いた代物だというのだ。像は、腹が八つ以上に割れた男が右手を頭、左手を脇の下に入れ、左足を右足の上にしたまま直立している姿を表したものらしい。何を表現したいのか全く伝わってこないのは初めてだったと彼は思った。
(なんでオレ、そんなこと覚えてるんだろ)タスケタは門を見た。白い門。白銀ではない。天然の高級白灰ナモケ石のタイルである。タイルは床にまで使われている。意図不明の像は見えない。そういった趣味嗜好性癖ではないらしい。少し安心したタスケタであった。
 ここで立っていても意味がない。
 そこで、門を叩いた。直後、鳥の羽ばたく音がした。飼い慣らしたサルオウムだろう。貴族の間の人気ペットだと思ったが、今では金持ちの間で流行しているのだろうか。平民魔術師にはわからない。
「ポポップ、お客さんなの? 四人目?」女の声がした。
 間もなく扉が開かれた。そして見たのは、サルオウムを肩に置いたまま立つ娘。年の頃はタスケタより下。二十前だろう。
 髪は肩にかからない長さだ。服は青いスカートだ。どうも女物の服の詳しい名称はわからない。二十代男としては当然だと思う。その娘について他に思ったことがあったとすれば、学生時代、級友につながれて連行された先で見た、ミス・コンの三年連続女王、その妹に少し似ているということくらいか。
 似ているのは少しだ。
 まず表情が似ていない。女王の妹には一度しか会っていないが、わかる。女王を身内に抱える自信からなのか、とにかく女王の妹はにこにことしていた。走りながらも呻きながらも、泡を吐きながらも笑っていたことをタスケタは覚えている。
 目の前の娘、おそらくは彼を呼んだ人物の娘は、眉をつり上げてこちらを見ている。わあかっこいいわ、やっぱり男は研究熱心で好きなことにのめりこむ強さよね、そんなことは、全く一切感じられない。出そうという気配すら、ない。
 ただひたすらにタスケタを睥睨しているだけだ。
 たしか客人であったはずなのだが……。
 おかしいものである。
「……」
「セールス?」そしてぴしゃりと閉められた。
「押し売り反対」そして足音がした。
 反論を許さぬ早業だった。もう戸の音がする。
 父にはよく、男は二十過ぎたら泣くなと言われた。そうでなくても泣かないタスケタだが、肩が重くなって門扉にすがりつきたくはなった。
 ここに来たのは扉に身を寄せるためではない。
 売り込みだ。
 セールスとは少しちがう。
 やらなくてはならないのだ。
 いや、しなくとも誰も困らないのかもしれないが。
 タスケタの目標として、しなければならないのである。
(オレは世界一になるんだ)少年が一度は夢見るものだろう。いまだ少年の心を持っているイイ男、そういうことにしてもよい。
(魔術を日常の暮らしに活用する。そうすれば魔力を持たない人にでも楽に生活ができる。その研究にならだれにも負けない……)一日三回、食前に必ず繰り返し叫ぶのである。変な人ではない、ということにしてほしいものだ。
(その野望……いや、自己実現社会貢献への第一歩!)
 これをここまでの五日間、繰り返し繰り返し、鼓舞してきたのだ。魔術学校時代の彼は「修学旅行中、好きな女子の話や猥談をしている男たちに向かって、『進路決めてからにしろ。分身より本体の行く末を考えろ』と言って周囲を魔術なしに凍らせた男」として末永く語り継がれるだろうと言われている。まじめでひたむき、一途で諦めないのが特長だ、少なくとも自分ではそう思っているタスケタなのであった。
 しかし、やっとこの手につかんだチャンスなのに、断たれてしまったようなのだ。
「…………」
 しかしもかかしもからしもないと宣言するように立つ扉。
 それが。
ぎいと言った。
「すみませんね」
「シュルトダインさん……ですよね」
「はい」
 五十代頃の男が顔を出していた。それにしても、品の良さそうな人だ。目元が穏やかに笑っている。毎日が楽しいのだろうか、そこまではいかなくとも、不安がることは少ないだろう。
 頭髪の茂みの具合が安心の元なのかは不明である。
 髭もゆったりおだやかさを醸し出していた。 
 そんなシュルトダイン氏、職業・お金持ちに、
「私がタスケタです」と少し気取ってみた。
「お待ちしていましたよ。他の三人の魔術師さんも来ましたし、始めましょうか」
 えっ、最後!?


 若い魔術師は屋敷の中へと入っていった。
それを見て不審者の一人は合図をした。
『裏へまわれ』
 四人が裏の兵を越えたのを見て、合図をした一人が追った。
 五人は塀にもたれた。
 背中をつけたまま、首だけ動かして互いを見る。
「ターゲットが皆、入りましたね」
「ふふふ……」不敵そうに笑った。
「これで我らの勝利が確実になりました」
「へへへへへ……」無敵かと言われたら。
「目にモノ見せてやりましょー!」
「だが露出はいかんぞ。ひひひひ……」そんなことはないと感じるだろう。
「優勝決定ですねっ!」
「ははは……」断言できないのだ、不敵とも。
 不審者レベルが上がった。
 それの前を、リスの親子が通った。
「キィッ?(お母さん、あのニンゲンのおっさんたち何してるの?)」
「チッ!!(見ちゃいけません、坊や、見てはいけませんよ)」
 が、五人の男は気付かなかった。


 ここは、俺のいていい所なんですか?
 とても心細くなったタスケタであった。肺の間が寒くて仕方がない。
 今注目の魔術師! 彼の今後に目が離せない! 文明の進歩にかかわる男!
 それがタスケタだ。週刊魔術にはそう書いてあったのだから本当である。
 でも。それでも。
 週刊誌どころか教科書に載っている人も、居るんですけども。挿絵ととても似ているんですけども。
 タスケタは息とともに「帰りてー」という気持ちを吐きだした。それはいずれ、青空の下で草原を舞う風の一部となるかもしれない。
 目の前には若い男、見た感じは十八、多くて二十といった年格好の男がいる。教科書を見たクラスメートの女子が「キャー、かっこいーわ」「うちのクラスの男どもより五段上よね!」と心ないことを言っていたのを思い出さずにいられない。絵と同じでうつむきがちだ。先刻からずっとそうである。
 それがカシム・ワーケアリだ。
 教科書では『アルフォラナ大戦を終わらせた英雄』、『人類を虐げようとしたアーク・テイーオを倒した大魔術師』という文とともに、それまた俯いていた。どういうわけか五百年以上も生きているという。魔力が暴走でもしたのだろうか。
 カシムはそのまま動かない。石化魔術の力だろうか。
 と、きょろきょろとしてしまったタスケタに、
「すごいですな、ここは」
 と話しかけてきた男がいた。
 小柄な四十代前後の男だ。
 他に特徴はない。
「ああ」男はややわざとらしく手を叩く。
「私はですね、オーモノダー・ゴイスーの弟子の、コモノー・シタシモーです。師匠がかわりに行けと言うので来ました」
「タスケタです」
 道理で。
「ここのご主人は、魔術に、興味がお有りのようで、師匠のところに、手紙を出した、とのことですが、やはり、貴方も?」
「はい、まあ」
 こう、なんというか頭の後ろで踊られている気分だ。
「すごい人ばかり、来てるんだなあ、本当」出したハンカチで顔を擦る。
 もっとほめてよし。
「シイヤさんもいますね」
 そうはいかないのか。残念であった。
 シイヤ・サースィー。大国ステトの宮廷魔術師で、魔術兵候補に魔術の理を説く老魔術師と聞く。大国を支えるのだから、とても有名である。
 タスケタの元学友にも、シイヤを尊敬するべき偉人だというものがいた。
面接でもそう言ったら、ステト魔術訓練所で働けるようになったらしい。狂喜していた。おどっていた。十分もしたら、壁に穴が八つほど発生していた。今も何があったのかわからない。
 そんな秘術をもつアイツが酔ったいきおいとはいえ「スゴいマジ!」と叫びながらフライ・マジックを使い宙を舞い飛び空へ行き、蟹バサミ座の一つとなったのである。「俺、ぜったい若者言葉使わない」と言ったアイツが、夜空に瞬く星に。マジ、マギ、そう語尾につけるのが今日びの十代の少年の流行だと言うが。それ程すごいのか。
 目の前の白髪の老人は口元を緩め、微笑している。厳しさ、激しさとは無縁そうな優しそうな印象を受ける。
(うーん、緊張していないのか)
 タスケタはというと、緊張していた。学校の三十五人が学ぶ教室一つ分くらいの広さのこの部屋、今は四人でいる。鹿と熊とフクロウがこっちを見ている。ソレモスキーの名画『たんに肌色が余っただけである』がある。四方は三匹、いや二匹と一羽と、三人の裸女に囲まれた。見上げると、シャンデリアがある。庶民だし専門外だし、とにかく金がかかってそうとしか思えない。落ちてきたら大惨事だ。床にはデンジャ虎がいた。どぎつい色調のそれの下は、薄い褐色の木張りの床。目が疲れた時見ていたら、よくなるかもしれない。
 六方を囲まれてしまった。なすすべなしだ。
 そう言えば何故オレは部屋と戦ってるんだろう。
 それはすることがないからである。
 瞬き一つしない間だった。
 先ほどコモノーが話しかけてきてから、会話が終わってから、全く会話していない。
 ひまだ。暇なのだ。
 カシム・ワーケアリに話しかけるのは……なんとなく気が重い。相手はそういうたちの人間だ。教室に時々いる人種。
 コモノーとも、なんとなくためらわれる。
 知人が貴方を尊敬してるんです! ファイア・ボールで火炎竜の群れを全滅させたり、カースで大魔王を呪って寝込ませたって本当ですかシイヤさん! そう、友達のユウヂンは言っていたんですけど! サインほしいそうです。自宅あてで。
 うん、これでいこう。
 そうタスケタが決めた時である。
「いやー、お待たせしました」
 腰の低さを披露するシュルトダイン氏が扉を開けた。
 持っているのかティーカップが八。
 続いて現れた者がいた。
 栗色の髪を腰まで伸ばした若い女だ。タスケタとそう年は変わらないだろう。穏やかさと豊かさを父から受け継いでいるようである。ゆるく巻いた髪が耳の後ろを通り肩に流れているのが、いかにも令嬢といったところか。今まで金持ちの娘はほかに三人ほど見たが、何の因果か、皆巻いていた。
「これが長女のマーリーンです」
「はじめまして、ようこそいらっしゃいました」
 紅のスカートのすそを持って頭を下げた。
 次に、小さな少女がとことことやってきた。
「このこがアイシアです」
「こんにちはー」
 十にもならないんじゃないかと思う、女児だ。両方の耳の上で髪を結えている。頭を動かすたびにそれが揺れている。邪魔にならないのだろうか。タスケタは昔よく「女心のわからぬ奴め」といわれた。そういうものなのだろうか。
 長女の笑みが「ほほえみ」なら、この少女のものは「とりあえず楽しいからごく自然に満面の笑み」である。小動物のようなこじんまりとしたものを感じる。
 そして。
 ……。
 シュルトダイン氏の娘二人の後に、やはり同じ色の髪の娘が現れた。上記二人とは違い、髪が短い。
 そしてやっぱり、「いらっしゃいませー!」「歓迎しますー!」「きゃあこの男の人、素敵な目標持ってるわ」などという心がないのだろうと思われる表情。
 ふぅん、はあ、きたの? ……で? 用が済んだら帰ってもらえる? 
 とでも言いたげに。
「こっちが次女のビビアーナです」
 と、言われましても……。


「目標います。……あっ」
「どうしたソノーチ!」
 ソノーチと呼ばれた中年の男は、まるで十年想い続けてきた女が子供を抱いてほかの男と談笑しているのを見たかのようだった。
「く……くそうっ!」
「ソノーチ!」
「かわれ、俺が見る」
「ああっ、サード!」
 サードはソノーチを押しのけて見、叫んだ。
「大変だ! 悲劇だっ! 一大事です隊長っ!」
「どうしたのだッ!」
 親の仇が妻の不倫相手でそればかりか気に喰わない上司で前世で敵同士だったのを知ったかのようなサードであった。
「我々がこんな苦境にあるのを知ってか、奴ら……おいしいものなど食べています!」
「な、なんだとッ!」
 隊長は青キルヒモ石より青くなり、赤ケルフモ石より赤くなった。
「許さんッ! 人の道にまで背くとは、なんたる事ッ!」
 身を乗りだしてまで、大絶叫だ。
「のどをいためますよ」
「そういや我々、隠れてるのでしたね」
「もうかまうものかッ! 全軍突撃だッ! 続けえッ!!」
「待ってください」
 隊長の首筋に手首を叩きつけたのは、二十二、三ぐらいの若い男だった。
「このまま行くのはいい作戦とはいえませんね。相手は魔術師、それもBランク以上ですから、無闇に突っ込んでもただ怪我するだけです」
 ずるりと地面に落ちていった。
「では待つことにしましょう。サード、フタルメ、二人はそこの木の下に。あとの隊長とソノーチは一緒にここで様子を」
「え……」
「あ、はい……」従い、陰に身を隠す。
 それの後ろを、リスの親子が通った。
「キィッ?(お母さん、またあの変な人が何かしてるよ?)」
「チッ!!(見ないふりよ、坊や、見ないふりでやりすごすのよ)」
 が、五人の男は気付かなかった。


 目の前に出されたものをディテクト・アイテムで調べた。
そしてタスケタは身震いした。
クッキー一皿。モルベヨ産の小麦粉を使用している。小麦といえばコルゼン地方だが、それを凌駕する品質だという。
ケーキまである。モンプランだ。ステト北東にそびえたつ『巨人の肘』モンプランから名前を付けられたそれは、ヴィベルナカ産の超高級黄金栗をこれでもかこれでもかまだ足りんかふうやっと一つ当たりの栗密度を四捨五入すれば二桁になったというぐらいの、とにかく栗がふんだんに惜しみなく使われている。
紅茶はステトとモルドの国境で収穫された王宮御用達のステモルド茶葉を百厘使用しているとか。飴色に少し朱が差した色が美しいと、貴婦人の休憩には欠かせないという。
皿はどうやらステルニィの作品のようである。ロルロルのつたが円を描き、青い花がいくつも咲いている。ロルロル自体、希少価値がある花なのだ。実物は三で鉢で家が変えてしまう。花言葉は「私、安い女じゃなくってよ」。つまりロルロルとステルニィは夢の共演なのだ。珍しく高貴なもののカップリングである。
それをかき混ぜるスプーンの柄には、エメラルドがついていた。成人男性の親指の爪ぐらいの大きさだ。地のスプーンは、魔術憑きの高級銀だ。五千年経過しようとも、全くさびないという。灼熱の業火ですら、潔白な白い輝きを見せるそれに少したりとも傷を与えられないという。水で洗って間もなくだとしても、いつの間にか水滴が消えているのも特長である。本当に銀なのかといわれると、だって魔術がかかっているとしか言えない代物だ。
まじゅつってすごいんだなー。
タスケタは五歳の頃を思い出した。故郷の味があったというわけではないが。むしろこれを「子供のころから知っている味」などと言おうものなら、オノレは貴族か王子サマか、ということになってしまうのだ。至って庶民、中流家庭の出身である。
だから上手く食べれなくても……。
「うちの女房が、おいしいもの好きでしてなあ」
 深いため息をつきながら、シュルトダイン氏は語る。
「どこからかケーキ等を見付けては、買ってくるのですよ。アモドベンの五つ首牛の足首ステーキだとか、ルビーエッグを燻製にしたものとか、よく買ってくるんですよ」
(ただのゲテモノ喰いにしか聞こえないな)
「まあ、そんなツレの食の好みに、わたしも合うのですが」
 ノロケだろうか。
「好きなものが同じだったり、好きなものに対する気持ちや情熱が同じなのは、やっぱりいいですね」
 やっぱりそうだった。
「私も、何かしら興味を持ったものに対しては貪欲でいたいし、そうあることが良いと思うのです」
 ふーん。
 へえ。
 別に聞き流してはいないタスケタであった。
「知らない事が入っていればいるほど、それが愛しくなるのです。もっと知りたいという欲、知らないということを認識したいという欲、それがあるのだと妻は言いますし、わたしも思いますよ」
 つまりは雨の日の一目惚れということか。
 タスケタは天気の悪い日は外へ出ないが。
「探求ですか」
「ええ、まあ、そうなのでしょう」
 どこか恍惚とした表情、な気がする。
「だから……皆さんを、お忙しいとは思っていましたが」
 そういえば、様々なものに目を奪われていたが、自分はこの紳士に己の技術を見せるために来たのだった。 
 あーあ、すっかり忘れてた。
 では済まないタスケタだった。緊張のあまり、暑くも寒くもないのに汗がこめかみを通る。いつ発生したのやら。
 たとえば、子供の頃に読み聞かせられた童話。蛙になる呪いをかけられた王子やら、悪いドラゴンと戦った勇者やら、魔術はよく出てくる。
 今この場には本物の「おとぎばなし」のような者がいる。カシム・ワーケアリ、彼は大戦の英雄だ。彼がアーク・テイーオを倒したというのだ。
 魔術師が攻撃をしたというのだから、攻撃魔術以外無い。
 その上、魔界の生物を倒したのだ。魔界の生物、通称・悪魔は、人間より魔術を扱うのに適している。下っ端の悪魔が戯れに使ったファイア・ボールと同じ威力になるには、四、五年かかるのだ、人間の場合は。つまり、相手の得手で勝つのは大変だということだ。
 つまり、カシム・ワーケアリは目立つのだ。
 それどころかコモノーやシイヤ・サースィーまで目立つ。
 それはなぜか。魔術の中では攻撃魔術は派手だからだ。
 炎が巻き起こる。大怪物が氷で覆われる。竜巻が林を薙ぎ倒す。ドのつく派手さだ。バーン、ドーン、そんな音がつきそうだ。ドォオオオ、グォォォア、ブォォォオン、ギャァァァァ、とかそんなかんじだ。
 それを使って『敵を防ぎ、退治する』のが攻撃型魔術師だ。ここに三人もいる。
 なぜか冷や汗が止まらないタスケタ。
彼は攻撃魔術が得意ではないのだ。自称「攻撃は魔術学校でなんとか赤点を免れるレベルだったけど他は一位だ。だからそれでいい」男、タスケタ。「平和な時代だからいいや」と級友には言いつつも成績のために徹夜で練習した男だった。
 どう利用するのかだったら、誰にも負けないと思える。自信作『魔動本めくり機』だって持ってきた。彼の心はもう、フハハハハハ、我がチカラにおそれおののくがよいわ! 状態なのである、派手さを求めなければ。戦争の補助などに仕える魔術は工夫次第で朝で夜でも猫が鳴こうと象が走ろうとも役に立つ。鶏の揚げ物が空を飛ぼうと、イルカが二足歩行しようともだ。
 たとえば、古代魔術文字を解読できる『リード・ランゲージ』。頭の中で勝手に読まれていくのだ。というよりも、書いてある内容が分かるのだろう、そうタスケタは解釈している。
 これは戦争中なら、とても興味深い使い方をする。暗号として使うのだ。何十種類とある古代文字をいくつも入り雑じらせてしまうと、解読が難しくなる。味方同士で訳が分からなくなったという話は聞かないのだから、きっと便利なのだろう。
 平和なら、古典をそのまま楽しめる。古典は原文のままが一番面白いのだ。
 タスケタのオススメは、エレリルの歴史ロマン大河小説、『エレリル・ロクデーモ一族』だ。圧巻だ。七代目の王を主役とし、彼がアウロカの街角で出会ったスゴイワ・コノコが話主をつとめる第一部が(タスケタの)高評価を得ている。
 コノコの前で役人を買収して驚かせたロクデーモ七世の人物像も面白い。第一部のラスト、ロクデーモ七世とコノコが舞踏会で目線を交わらせるシーン、あれは切ない恋物語だと、主婦層を中心に人気が出るはずである。
 名台詞の「黄金は愛より重いわ、でも恋よりは軽いのよ!」は原文のほうが楽しめる。
 このように『リード・ランゲージ』は便利なのだ。
 他にも『ライト』は、もしかしたら室内で植物を育てるのに利用できるのではないかと、ムルバートの農家と話し合っている最中だ。
 『ウォーター・ブリージング』なら、水の中でも呼吸ができる。今週末にでも、ステト貴族に話を持ちかけてみようと思う。ステトのフワン湖を散歩する旅行の企画だ。
 それと……。
 …………。
 タスケタは溜息一つ、深くついた。よくない癖だ。熱がこもり、手のつけようがなくなってしまうのだ。知人からもよくたしなめられる。
 息を二、三度吐き、やっと、戻れた、と思った。
 これでは『タスケタ考・魔術利用で明るい未来計画』を発表するのも気がひける。
 これまで知人友人元同級生父母従兄弟再従姉妹計三十五名に聞かせたところ、泣きだした者五名、逃走した者七名、叫び出した者三名、失神した者四名、溶けた者一名、耳をふさいで嫌がった者十一名、途中でふっと消えてしまった者四名出たのだ。あまりにも危険すぎる。
 比べられる前に、さっさと自信作を出して帰ろうか。
 と、タスケタが思った、その時である。
「じゃあ、魔術について教えてくださるのですか?」
 長女マーリーンが明るい声を出した。
「よければ、しましょう」
「本当ですの?」童女のように喜ぶ。
「わたしもききたーい」本物の童女も喜ぶ。
「ちょっと理屈っぽくなるかもしれませんがねぇ……」
 シイヤ・サースィーは、かくて話し始めた。

 魔術といえば何を思い浮かべますかな? ん、呪文と魔法陣、そうですね、その二つは大切な要素なのですから。
 まずは呪文。呪文は「力を貸してください、誰々様」という文句として使われます。西大陸から伝わった魔術額です。
 この世は人の手の及ばぬ『外界』があり、そこには『神』や『精霊』などがいるといいます。
 火を出したいのならサラマンダー、風ならシルフ、水ならウィンディーネ、といったように、世界の物事をそれぞれ司る精霊にお手伝いしてもらうのです。
 神様の場合はちょっと違いましてね。神様は一人で火も水も出せるんですよ。神は万能なんですね。すごいですね。
 そして平和主義……らしいんですよ。
 怪我した人を治す以外は、してくれないんです。例外として神様に敵がいて、そいつを倒す時には火などを出してくれるそうですけどね。信仰心と引き換えに、神の許した範囲内の力を与えられるのです。
 この二つ、呪文がめんどうですよね。つまり時間がいる。威力はすごい。でもちょっとめんどくさい、なんて思いそうですよね。
 そう思いません?
 え、私ですか。
 言えませんよ、いや、めんどくさいなんてないです。
 たとえば、ここで私が『三丁目のリャナンシーさんステキ』といったとします。三回ばかり。
 するとどうです? 力を貸してくれるリャナンシーがステキだって、みなさん思い始めるじゃあないですか。
 呪文の仲に悪口はありません。あったら力を貸してくれませんもんね。いい事が読まれるんです。
 ほめられて悪い気はしません。
 何度もほめてくれる人がいたら、サービスしたくなりましょう?
 だから人は呪文を唱えますし、それで力を貸す精霊もいるんです。
 まあ、他人様の力を借りるほどでもなければ唱えませんがね。
 ちょっと弱火が欲しいかな、というときは自分で出しますが、強火を一時間、なんて時は、ちょっと出してください、そうお願いするんですよ。
 でもお願いだけでは力を貸してもらえない時もあるのです。
 たとえば、アイシアさん、あなたお姉ちゃんのお手伝いしてますか? お皿持っていったり、出来ます?
 いやあ、まだお小さいのに、よくできたお嬢さんですなあ。
しかし、もし、そこのクロゼット持ちあげて、なんて言われたら、さすがに無理でしょうな。
 このように、精錬さんの力量をはるかに超えてしまうと、頼まれてくれません。素直にその上位の精霊に頼みましょう。
 ほかにも、力はあるんだけれどそこまではいけない、という時は、道を作って出口も作り、目印を出さなくてはなりません。
 召喚なんかがそうです。呼び出したいものに、「わたしはここにいますよ」って教えるために、魔法陣を描くんです。それを目指して行けばいいんですから。
 門を開いてあげないと、体ごと出るのは無理ですから、忘れないであげないといけません。
 ……………………。

 これは一体。
 タスケタは静かに震えた。
「講義以来だ」
「そりゃあ、そうでしょう、なあ」
 コモノーが同意する。
「まったくだ……」
カシム・ワーケアリが首の前で手を振り煽ぎつつ言う。
「しかも講義でも、こんなじゃなかったと思う」
「そりゃあ、そう、でしょう」
「まったくだ……」
 もしかしてシイヤ・サースィーも、語る人なのだろうか?
「うう、なんか体の表面が……何故か、液状に!?」
「ああっ、こっちはなんか、無償に、叫びたくなってきましたー」
 やっぱりそうなのだろう。
(これが、老練した魔術師の本気か……!)
 そう見られているとは夢にも思わないんじゃないかと見える、おだやかな表情で、シイヤ・サースィー、職業・ステト宮廷魔術師、年齢は七十二、彼はいまだ浪々と、朗々と、話し続けていた。
「物は試しです。悪魔を一匹、出して見ますね」


「こちらソノーチ。応答せよ」
「ヘイ、ソノーチ」
「フタルメ、サード、大変だ。窓のほうを見てみろ」
「何っ」
「あっあれは!」
「そうだ、バケモノだッ!」
 派手な音をたてて立ち上がる隊長。
「あのオカルト根暗野郎ども、珍獣を飼いでもしたのかッ!」
「うるさいです」
 派手な音をたてて地に沈む隊長。
「あれは何なのだろうなフタルメ」
「サードよ、細胞融合という言葉を聞いたことはあるか?」
「ないな。何なのだ?」即答だった。
「細胞が合体するのだ」それ以外にない。
「なんでも、その秘術を使うと、通常ではこのできない生物同士の形質をもつ生命体ができるとゆー」
「しかし、うさんくさいやつらが、何故そんな術を?」
「もしや、その術の研究施設やなにかを、活動資金欲しさにッ!?」
「なんという……」
「許せない奴等だ……」噛み締めるようにつぶやくのだった。
 その近くを、リスの親子が通った。
「キィッ?(かくれてるつもりなんだったら静かにすればいいのにね)」
「チッ!!(そういうものよ、坊や、愚者はそんなことおかまいなしなのよ)」
 が、五人の男は気付かなかった。


 やがて、悪魔が出た。
 頭は雄山羊、胴は……このあいだ見たモフモモザルに似たかんじだ。足は大型の鳥のようだ。そういえば腕は六本ある。
「わあ……」女児、声を上げる。
 さぞかし驚いたのだろう、タスケタも驚いた、柔らかな表情の老人の足元で、それが頭と六本の腕の先の手を床につけているのだから。
 土下座である。紛うことなき土下座である。どこから見ようとも土下座である。
「なんだあれは……?」
「なんで、土下座、なんでしょ」
 カシムとコモノーの声がした。
「すごーい!」恐くないらしい。
「およびでしょうか……?」
 悪魔は頭を上げずに言う。
「すごい……」次女のビビアーナが手を……。
「……」のばして、撫でる。さらりとした毛らしい。
「やわらかい……」ことがわかった。
「人は襲いませんよ」シイヤが言う。
 しかし、いくら大人しかろうとも、いきなり土下座はしないのではないか。
「なあ、ポチや」
 ポチというらしい悪魔は「……はい」と弱々しい。「この冷血漢!」と言われたことが二回ばかりあるタスケタだが、この悪魔のことが心配になった。
 今まで数年間は、爆裂薬効必殺昼定食をおごらなかったぐらいで人でない扱いを受ける自分のほうが気にかかっていた。人は変わるのだろう。
「召喚というのは東大陸独自のものだったんです、もともとは。東大陸の魔術、つまり精霊の力を借りるのが多くて、万物に感謝する文化が他の大陸に伝わったとき、
 語る人だ。
「シイヤ様の教え方は、よくわかると見習いさんたちにも大人気で全ステト魔術師がよろこびます、はい」
「すごーいぃ。わかんないけど、すごーいぃ」
 タスケタもだ。
 頭をまだ上げない悪魔を見て、うつむくのをやめた大魔術師は、
「俺には召喚はできないからな……」と、ぽつり。
「あ、カシムさんは、絶対神メ・ダの力で、魔術を、使うんでしたね」
「ああ」
 悪魔は神の敵である。もっとも、害のないものも、いるが。
「だから、召喚されたのを見るのは……初めてだ」
 ここまで下僕にされているのも初めてだと思われる、人類的に。魔術史上、たぶん初。
 そんな珍しい悪魔は、
「ポチちゃん、こっちむいてー」
「クッキーたべる?」
 長女と三女に黄色い声をかけられていた。
「わあ、たべたー」
 そりゃあ口元に持って行けば、そんなに期待されてしまえば、食べなくてはならないだろう。
「もっと、たべるー?」
 相手は知的生命だ。先刻、話しているのを見ていただろうに。うささんやわんこさんではない。彼は悪魔殿である。
「おとなしいの……」というか、なんというか……。
 絶対服従である。きっとそう思っている次女であった。
「本当にすごいのね、シイヤさまは……」
 ため息の後に、つぶやく長女マーリーン。
 もしかするとだが、邪推でもあるが、もしシイヤ・サースィーがシュルトダイン氏より年下だったら、そういった間柄に発展するかもしれないと思った。
 その瞬間に白髪の老人が若々しい男に……。
 ということももちろんなく……。
「いえいえ」
 と言いつつ紅茶を飲むばかり。
「コモノーさんのお師匠様は、とても偉大な方だそうですよ」
 皆の注目が、やや小柄な男に集まる。
「えっ、ええ、まあ……」
 身をよじらせる中年男。
「尊敬、してますし、ま、まあ、そうです、ねっ」
 その名もコモノー・シタシモー。
「オーモノダー様、は」
 年は四十二だとか。
「とりあえず飄々、とした人、ですよ?」
 聞けば、オーモノダー・ゴイスーは、「怪我をしたし、よい勉強になるだろう、かわりに行ってまいれ」とコモノーを出したという。
「怪我されたんですか!? 大丈夫なんですか?」
「グアアアア、って声がしたんで、弟子一同、驚いて、師匠の部屋に、走って行ったんです」
「グアアアア……って?」
「いくと、師匠が、こう、なんというか……、死んだ虫みたいに、ひっくり返って、いましてね」
 それは驚くだろう。
「介抱、しましたら。腰をさすりながら、頭痛をうったえだしまして、肩こりがこった、腰痛がいたいと、言うんですよ」
 本当に偉大な魔術師なのか。
「師匠が言うには、刺さった、らしいんですが」
「刺客!?」
 なんとおそろしい。タスケタは口を開けた。あまり利口に見えなそうだ。
 刺客。魔術師が苦手とするものだ。後ろから首をねじられたり、心臓をつかれることを防ぐには、間合いが十分な間に殺るしかない。今にも一突きか、という距離で炎を出したりすれば、自分にも被害が出るだろう。煙の中から襲われても危ない。それに刺客はおそらく、部屋の中か狭い路地にいるのを狙うだろう。火事になってしまったりする。何とか追い払えても、近隣住民といさかいが起きてしまうこともあるだろう。
「オーモノダーさん……大丈夫だったんですかっ」
「全くもって、命に、別状はありませんでした、が」
 さすが偉大な魔術師だ。それならば、変なことを言っても大した難点にはならない……。
「大変でしたねー」マーリーンが言うと。
「ええ、大騒ぎ、でしたよ」それはそうだがとカシムがつぶやく。
「コモノーさん、そんなときにお呼びして……」
「いいえ、大丈夫ですよ、だって」
 手を振り首を振り、どこかの民芸品のお土産のようになっているコモノー。
 彼が言うのを、タスケタは聞いていた。
「椅子のとげが、当たっただけ、なんですから」
 その言葉は右耳に入り、脳髄を巡り巡って七周半、脳なりに思考したのか三秒止まり、二秒間の小休憩ののち、少し迷ったように左耳に抜けていった。
(なんだそれ)
「なので、オーモノダー師匠は、元気ですよ、ベッドから出ようとしないけれども」
 大した人である。
「なので、これ以上、師匠のお話、してもですねえ」
 話を変えようとしている。
 タスケタは身構えた。
 見せるものはある
 フハハハハ、我が魔術の傑作におそれおののくがよいわ! ……
 気合いがため息になって口から出た。
 まずい。
 妙な緊張だ。足がつった。クッキーの欠片が歯に挟まっているのがいやに気にかかる。右手中指にささくれ発見。のどがかわいた。
 首をおさえつつ紅茶がまだ残っているカップに手を伸ばす。
「じゃーさー、おにーちゃんはー?」
 少女というより女児の話しかけた相手は、カシムだった。
 おにーちゃんといってもその人間はポルカ国より年上である。
「「すっごいまほうつかいなんでしょー?」
 カシムはアイシアのほうを向き、一言、
「まほうつかいではなく、魔術師……だ」
 と言った。
 カシム・ワーケアリ、彼は大陸史の教科書に載る男である。見た目通りの年の頃、魔界の悪魔の帝王と戦い、勝ったからだ。タスケタとしては、そんな相手と出会って戦うことなく教科書に載りたいものである。
 つまりはそんなすごい男が目の前に存在するということだ。
 クラスメートの女子たちがカシムの書いてある絵を見ては、「愁いのある横顔がかっこいい」、「五百年以上生きているのに、なんて男前」、「火を吹いているアーク・テイーオのブサイク加減がちょうどいい具合に引き立て役になってる」とさわいでいたものだ。
 タスケタとしては、例えば百年後、教科書を見た健全な青少年が、「この人のおかげでぼくらの生活はとても便利になったんだよね」、「すごいね。秀才だね、英才だね」、「結婚するなら、平和的に魔術を使えるひとがいいわ」等と言ってくれたら、うれしいものだ。
 言ってくれたら……。
(……ん?)
 少し気分が高揚してきたというのに、なんだかのどに小骨が刺さった感じだ。
(すごい、まじゅつし?)
 小骨ではなく針が突き刺さった。
 タスケタは頬と首筋がいやに冷たいのを感じた。
 そんなすごい人の後に見せるのか。
 ああああ。
 思わず、小さく呻く。
 人がいなければ、頭を抱えてしまいそうだ。
 逃げたくなる。五年以上、修行したくなった。何なら滝にでも打たれてやりたい。
 さっきまでは強気だったというのに、何この落差。
 絶体絶命だ。タスケタは思った。死なないとは思うけども。いくらわかっていても。
 ……そこに、ふっ、と、降りてくるものがあった。
 思念。人の感情、意志が具体化し、現象になったもの。
 元同級生のあいつ、夜空に輝いたあいつ。どうしているかなあと思っていたら、なんとあいつが励ましているようではないか。
 あいつが口を動かしているのが見えた。
 なんといっているのかは分からない。
 しかし、がんばれよ、そう言っているのだろう。
 拳を握りしめた。やる気が出たのである。
 まさか、元学友が思念を飛ばして励ましてくれるとは思わなかったタスケタだが、決意はできたのだった。
 思い切り目を開いて見る。
 状況は、変わらず。
「まずつしなんだよねー」
「まじゅつしだ……」
 女児がにこにことしながら。発音を気にする魔術師がいて。
「いちばんすごいんだよね、おにーちゃんはー」
「そうだ……」否定しないのか。
「みんなゆーもん。おはなしの中にも出るもん」
 幼児の通る道だ。タスケタもよく聞かされたものである。
 勇者サマの冒険だ。彼のように勇ましくおなり、良い事をするのですよ、そう母親に加えられる。
 そこでの勇者様は、一千万分の一の確率を一千万分の五億万ぐらいにして、さも当然とでも言うように必然に奇跡をおこす。フワン湖七つ分の血を出しても、ピンピンしている。貧しい人には優しくお金を分けてあげるが、お金持ちに媚びることはない。王都は友人のようでありながら、奴隷制は非道だと叫ぶ青年なのだ。そして大体、聖人君子の好青年。
 けしてニンジンが食えない、なんてことはない。
 タスケタは頭から握りこぶし三つ分くらい上に、意図なく気持ちを浮かべてみた。あんたらは、ほんとにニンジン食えるのか。まあいいや。
 それとは違うのが、この男なのだ。
 他のいたのか架空なのか怪しい勇者たちは、最後幸福な余生を暮らすのだ。姫を嫁にもらったり王宮に婿入りしたり、元仲間と結婚したり、幸せの絶頂で物語は終わる。
 しかしカシムの物語は、大敵アーク・テイーオがカシムの友人や恋人や家族を殺してしまう。不老不死の呪いまでかけられて。
 何とかアーク・テイーオを倒すものの、大切な人々は帰ってこない。
 底から、「まわりのひとを大切にしましょう」と教訓付けられる話である。いくら大切にしても、アーク・テイーオの前では無駄なんじゃあないかと、幼き日のタスケタは思ったものである。
「でもね、おはなしのなかの人、今までみたことないの」
 それはそうだ。
「おにーちゃんはどんなまほうつかうの? どんなわるいやつたおしたの?」
 アイシアは首をかしげる。
「……魔術、だ……」
 うつむくカシム。
 何やら、歯を食いしばっている。
 ギリ、と音がした、その時だった。
 ずいぶん大きな音だな、歯ァ大丈夫か、そう思ったタスケタの目の前が暗くなった。
 まだ昼である。
 いつしかカーテンは閉められていた。
 だからといって、こんなに暗くなるはずはない。
 まるで夜のようだった。
 だからというわけでもないだろうが、疲れた。肩が重いのだ。手は痺れた、手は攣った。さんざんである。
 暗闇の中、目が慣れたのだろう、シュルトダイン氏と娘三人の姿が見えた。
 何故か、菓子を食べ続けていた。
「ここは暗黒空間のようですな」シイヤ・サースィーがつぶやいた。
「何なのです、それは」
 シイヤはカシムを指で示した。
「思念の強さに体がついていかなかったのです。制限されない力になって、この空間ができてしまったのです」
 先ほどの級友のものの無意識強化版か。
「シュルトダインさんたちは、魔術を使えない、つまり魔力がないから、見えない、みたいですね。」
「高度すぎるオーラなのでとらえられないのでしょう」
 辺りを見渡すコモノー。
 うつむいたままのカシム。
 目に入った途端に不快な痛みに襲われた。
 脳を掻き回されている感じだ。
 生きたまま神経を引かれ捩られていたら行、というものまで出てきた。
「波動……これは……!」
「なんと、大きい……」
はじけるものがあった。

 昨日はエペラントが落ちた。
 今日頃はリュネッサに着いているだろう。
 アンバットまでは一月か。
 つま先で樽をつつくと、転がっていった。
 樺の木にあたって、止まる。
 壁に躰を預け、額に手をあてる。
 忘れられない。
 屈辱だった。
 圧倒された。
 自分ごときが戦える相手なのか。
 強大なそれは。
 思い出すだけでも震えが来る。
 あれの前では脅えるだけ。
 百人が一瞬で灰になった。
 神の敵め、そう叫んで駆けだした魔術兵たちが。
 中にはシュリアイがいた。
 あいつ、病気がちの妹にお土産があるんだと言っていた。
 それを。
 奴は。
「くそっ」本当は壁を殴りつけたいほど。
 唇が動いただけだった。
 あの時は手しか動かなくて。
 術の一つもできなくて。
 逃げられず、余波を浴びて骨が折れて倒れていただけで。
 奴が去り、味方が来た時には気を失っていた。
 どうしようもない。
 あれは、そういうものだ。
 奴の前では捕食される蟻のようになるしかない……。

「うぐっ」
 怪力男に頭を振り回されたようなふらつきを覚えたタスケタ。
「気を強く持たないと、流されるでしょう」
「そんな、……わあっ」

 露のように、父と母の顔が消えた。
 そこに辿り着いた時には、トゥモダッツが居なかった。
 濃い色の石畳に白い灰で書かれた魔法陣の中へ、皆。
 そして今そこに立つのは。
「ロインフィー!」
「カシム……」
 ハシバミの瞳と出会う。
 そこから、一滴の、
(涙……?)
 さっと、それをぬぐうと、彼女は口元を歪めた。
「じゃあね」
 床に腰を落とし、手を組む。
「絶対神……メ・ダ様……」
 歌うように、紡がれていくのが。
「このわたしも、御元へ……」
 呪文であることに気付いたのは。
「ロインフィー!!」
 そして、閃光。
 跡には何も。

「がはっ」
 コモノーが血を吐いた。
「んぐ、ぎひ、……ううう、血が」
 服に血が垂れた。
「洗うの大変なのに」
 タスケタは同情した。まだ水仕事はつらいころだ。
「それにしても、何故、出たんでしょう」
「思念の仕業でしょう」シイヤ・サースィーは断言した。
 ああ、また襲ってくる。
 嫌気が差すのだった。痛みは増すし、体の平衡感覚はもう無い。

 それを見つつ、手を突き出した。
「ほう? まだやるとでも言うのか」
 下卑た奴だと思った。
 足元にあるいくつもの骸が、崩れていた。槍、鎧、兜が散らばるその山を、爪先でいじり、時には頭蓋を踏み潰す。
 これをなんとかしたら、リュネッサに行こう。生の本人を連れてはいけないが。別に殴られてもいい。こんなになってしまったとしても、帰してやらなければ。
「余裕か? 神のしもべ君が」
 ほざくな、悪魔が。
 これ以上これを拝むのはたくさんだ。
 早く、済ませたい。
「絶対神メ・ダ様、御元にある志を魂を……」
「しもべ君お得意の生け贄戦法かい」
 アーク・テイーオが言うと、それ以上唱えられなかった。
 いや、唱えることを、神が許されなかったのだ。
 頭が重くなった。ふらふらと、足元すらも確かでない。
 骨を玩びつつ、嗤う悪魔。
「どうやら献上品が安かったようだな」

 どっちが上だかもあやふやになってきた。
(あと五分続いたら吐く)
 タスケタは深呼吸をしようとした。

 醜い肉が砕けて飛び散り、しぶきが顔についた。
 岩を割った時に出る濁った油のような臭さが気にかかる。顔をぬぐいたい。ああ、服にも、思いきり付けやがって。
 異様に弛緩した筋肉を動かして、躰があるのを確かめた。
 生きているらしい。どうやら
 凝った足を持て余していると、視界の隅に妙なものが飛び込んできた。
 はらはら、ひらひらと、どこか上から、舞うようにして落ちてきたのは、一枚の紙。
 領収書。

 あと十秒続いていたら、死んでいた、かもしれない。
 あの妙に不安定で嫌に不快な思いをしないためなら、
「悪魔に魂売るかもしれない」
 タスケタであった。
 一方、魔術を使えない一家ひく妻の四人は、やはり菓子を食べている。
「おにーちゃん、どーしたのー? まほうは?」
「イケニエガヒツヨウダシ、トテモアブナイカラ、イマココデハダセナインダーヨ」
「そうなの?」
 目がうつろなカシムに、首をかしげるアイシアだった。
「じゃー、おじちゃんー」
「わたし、ですかい?」コモノーは驚いたようだ。
 他に誰がおじちゃんだと言うのか。
「みてみたいの」か。
「すごいせんせいがいるんでしょー?」
 まあ、だからと行って弟子もすごいとは限らないが。
 しかし弟子代表なのだから、すごいのだろう。
「オーモノダー師匠、……ですか」
「会ったことはありませんが、とてもすごい人だとは聴きますよ」
 たしか来週の週刊魔術は彼の特集だったような。
 周りから見つめられている中年男。もちろんタスケタも見ている。
 魔術師五本指に入るという男とは一体どんな人物なのか。聖人君子だろうか。未来予知はできるのか。魔術無しで、人の心が読めるのかもしれない。上位の精霊や神とは数十年来のような仲ということも考えられる。
「師匠は……」コモノーがもごもごと口を動かす。
 獅子にまたがり森を走るとか?
「変な人、なんですよ」
 椅子のとげでのたうち回ったからだろうか。
 いちいち溜息をついてばかりだった。元々区切り区切り話すたちらしいから、なかなか話が進まない。
 そんな口調で、コモノー・シタシモーは話した。
「ある日、オーモノダー師匠は、自分はものすごいモンを召喚できるぞ、と、まあ、こう言ったんです」
「なんと!」
 首の後ろから声がした。
 タスケタの頭を飛び越えて、卓の上で左によけたのは、頭が雄山羊で六本腕の悪魔だった。
「シイヤ様を愚弄するか、貴様!」
 立ちあがるとコモノーが小さく見える。
 ひええええ、と声を上げたコモノーは、いすに座ったまま壁まで後退る。
「さ、最後まで、よっくと、聴いてからにっ!」
 手を高速で動かしていた。
「ポチ、戻りなさい」
 疾風のように土下座していた。
「続きをどうぞ」
「え、っああ、は……い」
 再開した。
「大敵サタンや、地獄爵バール、堕天使ルシファー、ベリアル、海帝レヴィヤタン、邪眼王バロール、病魔王パズズ、大地主ベヘモス、とかを、召喚できる、と自称、していますが」
「…………」
 ポチは角の下あたりを掻いた。
「…………」
「無理、ですよねえ」
「うーん」
 伝説、神話上の悪魔である。しかも強力な。
 いかにも失望した、とでも言うように、次女ビビアーナは息をついた。背をそらし、体を伸ばす。
「嘘でしかないじゃない。全く、下らないんだから」
「ですよねー」
「サタンって、聖人の兄サタナエルじゃなくって大敵サタンでしょ? 神と人間の敵だもの。人間に協力するはずないじゃない」
「ですよねー」
「バールだって同じよ。一部大陸では混沌を打ち倒した神と言われてるけど、召喚するまでとは、ねえ」
「……ですよねー」
「いくらヘレル・ベン・サハル、暁の輝けるものって名前があっても、ルシファーは堕天使なんだから。下手に出したら寝首をこう、されるんじゃないの?」
「……ですよねー」
「ベリアルも堕天使だったし。ベリアルは人を騙して裏切るのが好きなんだから」
「…………」
「レヴィヤタンは神がつくったっていうんだから、そんなもの召喚したら、神と同位じゃないの」
「…………」
「大体、バロールなんて呼んでどうするのよ。目が合ったら死んじゃうじゃないの」
「……」
「パズズだって、病気を運んでくるんだから。椅子のとげどころじゃないでしょ」
「…………」
「ベヘモスだって、出したら大変よ。おとなしいけどいっぱい食べるんだもの」
「…………」
 とても静かな部屋だった。
「んー」欠伸のような声を出した三女アイシアは、姉に、
「おねーちゃんってオのひとー?」
「マの人と言いなさい」頬を伸ばされた。
 ほっほっほ、シイヤは快笑して言う。
「学者になれそうなほど博識な娘さんですな」
「どうも、ありがとうございます」
 シュルトダイン氏は菓子を勧める。
「ビビアーナが、本を買ってほしいというもんで、お金を渡して見たんです。そうしたら次の月、どっさりと届きましてなあ」
 それはびっくりだろう。
 タスケタが氏の立場だったら、娘が悪魔と契約したではと疑うだろうと思った。
 しかし、語る人とはそんなものだろう。
「そういえば、モルバートの都に魔物科のある学校があったはず……」
「本当っ!?」
 ふと洩らすと、ビビアーナは目を輝かせた。手のひらを合わせている。
 ……と。

「そこまでだァッ!!」

 声と共に現れたのは、体を窓にぶつけ、障害を破壊しながら部屋に入ってくるという、常識が欠けた人間。
「とうとうだッ! まいったか、社会不適合猿の元締め野郎どもッ!」
 どこにでもいそうな三十代後半の男だ。筋肉の具合から見るに、漁業関係者だろうか。白い上着に赤いものを付けて、威張るかのように立っている。
「つづけ、隊員よ!」
 いきなり背を向けて、窓の外に叫ぶ。
「はっ!」何人かの声がした。
「隊長ォォオ!」
「どわっぷ」二十代男が窓に飛び込んだ時、残っていた木枠が折れ、はじめの男に当たったのだ。
 赤くなってきた男、後から続いた三人がたっていた。
 幸い、こちらに怪我はなかった。。タスケタ達は驚いただけである。
 しかし、幸せならば、こんな状況にはならないだろう。
 シュルトダイン氏は椅子から立ち上がり、変態に向いた。
「何の用ですかな?」
「窓代!」父の陰で次女が変人を睨んだ。
 血まみれになってきた男は、一歩踏み出した。
「我々は、そこの男たちに用があるッ!」
 タスケタらを指でさした。なんかいやだ。
「この時代に魔術などといういかがわしいオカルトを狂信する根暗男どもめ。たとえ女子や老人だろうと手加減しない紳士な我々、世界平和を願ったり星を見たりする会が、うぬらに正義の鉄ッ! 拳ッ! をッ!」
 いきなり男は跳ねた。「うおお、いいッ! サードッ! 足に、破片ッ!」
 右足を抱え、跳ねて窓際に行く。
「うがァッ!」
「ああっ、隊長!」
「大丈夫ですか」
 二人の男がそれに駆け寄った。
「左足にッ!」
「今見ます」男の足裏を見た男は。
「お、おのれ……魔術師とか言うふざけた奴らめ……」
 肩を震わせた。声も震えている。
「ブヘッ!?」
 いきなり血まみれ男が倒れた。
「隊長を、よくも!」
「いったいどんなおそろしい手段で。隊長は左足にささったというのに、右足を庇ってしまったではないか」
「知らんな……」
 カシム・ワーケアリが椅子を蹴った。
「そんな阿呆が人を率いて何だ」
「ふ、決まっているっ」
 腰に手を当て、「びっしっ!」と口で言う。
「いっせーの!」
 四人声を合わせて。
「貴様らオカルト根暗詐欺野郎どもをこの世界から駆逐するためッ!」
 所々、半音以上、ずれていた。
「そのためには武力行使も可ッ!」
血まみれ隊長が、両手を広げて走り出す。
「まったく、もう、しょうがない、ですなあ、もう!」
 手のひらの少し先から火が出た。コモノーは手を突き出しながら、隊長に近づいた。
「うおッ!? いくら我々が強かろうと、自らの手に火をつけて自爆するのは感心せん」
「いや、魔術ですって」
 獣のように炎が怖いのか、それ以上近つけず、もたもたしている。
「ポチ、シュルトダインさんとお嬢さんたちをお守りするのです」
「はい」
 いつの間にかの土下座をやめ、四人を背にして立つ。
 それを、
「やっぱりふかってるー」
「おおきいんですねえ」
 などと、背後から触る。
「ちょ、モフモフしないで下さいっ」
「がんばれポチ」
「シイヤ様までっ」
 使い間に命令を下した老魔術師は、すすすと歩み寄る。
「家屋侵入罪ですねえ?」
「あっ」
「窓までこんなにして……」
「あああ」
 一歩老人が踏み出すとともに、四人の男は一歩下がった。ふいに、にやりと口元で笑い、たたたと駆け寄るようにすると、とととと、走るように下がる。必死なようだ。
「あげっ」三人は壁に後頭部を衝突させた。
「どぼッ」血まみれは腰を支点にくるりと縦に回転し、窓から落ちた。
「ああっ、たいちょうが!」
「くそっ、オカルト野郎どもめ」
 あくまでも魔術を認めないようだ。
「こうなったら強行突破だ!」
 口走り、二人が走る。火を出しているコモノーと窓際のシイヤを迂回し、伝説の魔術師に向けて走り出す。
「居もしない神の下僕なら大丈夫だろう! 居たとしても清く正しく壊れやすい我々に手が出せるか!」
 左右の腕を泳いでいるかのように上下しながら、二人の男がぶつかろうとしていた
 刹那。
 あれがやってきたのだ。
 茶の席らしかぬ重圧感、もろもろ。爪を剥がれるような痛み、他。二日酔いよりもひどい頭痛、等々。
 前回は魔術師以外に影響しなかったそれが、二人に向けて放たれたのだ。
『く……。お前の仕業かアーク・テイーオ!』
 大絶叫。大きな鐘を打ったように響く。
『ロインフィーや両親、トゥモダッツが死んでも、お前はっ……! 命だけでは? 寿命だけでは? 俺ごときが一生このままなことぐらいでは? 永遠の忠誠でも、後悔も憎悪も悲しみも、絶望の最後のひとしずくをも捧げなければ、メ・ダ神は……!?
 なのに……!!? 無駄だと……?
 神でさえもっ……。
 ……違う! 違う……違っていてくれっ!
 俺は、ただ命があるからここまで生きてきたんじゃあない。もう誰も失わないために生きてきたつもりだ。
 それでも。それも。
 お前は嘲笑う、壊すというのかっ!?』
 はっきりとした思念の波は、うねり、うずまき、巻き上げては沈み、二人を中におさめ、そのまま解放しようとしなかった。
 白目をむいて倒れる男たち。お気の毒に。
「なんとか自力で操ることができるようになった……」
 じっと手を見るカシム・ワーケアリだった。
「なんか劣勢になりましたぜ」
「なにッ!?」勝てると思っていたのだろうか。
「よし、残るはあと二人。ポチ、あまり怪我させずに追い払いなさい!」
「はっ!」六本の腕でとった構えは戦闘の姿勢だろうか。
「今晩はお前の好物にします」
「というと!」
 ポチは各々手を打った。
「お城のメイドさんのビーフシチュー!」
 血ぬられし隊長は、悪魔ポチを指した。もちろん、自分で、どびしッ! と言いつつ。
「ロングスカートに白エプロンで頭にもなんかふりふりがついたロングヘアのメイドさんをビーフシチューにするとは、なんたることッ!」
「何なんだろ、この人間。おかしいのだけれども」
 ポチは三歩後退した。
 そのとき。

「何やってるんですか」

 窓からひょいと顔を出したのは若い男。
 タスケタは頭痛を覚えた。今日何回目だろうか。
 眉間をおさえつつ、また見、三度見、一度眼を閉じ、開け、見た、しかし変わらぬ人物がいる。
「なんでお前が……ユウヂン」
「いい身分になったんだな、タスケタ」
 男は窓を越えてやってきた。途中、失神しているらしい男二人に阻まれ、足先が迷った様に動き、床を踏んだ。
「おお、やっときたかッ!」
 いいかげん血まみれ男は叫んだ。
「何ですか、このザマは」
 黙った。
「ただ迷惑かけて怪我してるだけではないですか?」
 それ以外の何でもない。
「しかし……」
「もういいです、ちょっとそこで見てて下さい」
 しょんぼりを体で表現した。部屋の隅で膝を抱えてしまう。
 それにしても……。
 何故ユウヂンが……。
「何故魔術師のお前が、変人と手を……?」
「だれがへんじんだー」小さな声がきこえたようだが、おそらく幻聴だろう。
 ユウヂンは部屋の中心まで歩く。
「魔術師はやめた」
「あんなにも尊敬していた人がいて、そのまま蟹バサミ座になったお前が、魔術を否定するとは……」
 いつのまに空から戻ってきたかも、それはそれで気にかかる。
 ユウヂンは、テストの点がタスケタより低かった時のような、気に入らないため息をついた。
 見苦しいものでも見るかのように、目をそらす。
「お前はこうやって、金持ちに呼ばれるぐらいになって、一般人に被害が出ないようにしていた」のである、実は。バリア張ったり。
「それがどうした」
「それは」
 いつしかしんとした空間。
「恵まれてよかったなあ、っていうことだ」
 タスケタは今日までを思い出していた。父も母も中流家庭、一人息子だが甘やかされたと言われると、そうではない気になる。魔術学校に入ったのは、ただ興味があったから。卒業後、無職……じゃなかった無所属で研究すると言ったら教師一同に心配された。
 それのどこが?
 ふっ、まあ、我が才能に……
「地獄を見てないと言いたいんだ」
 みなまで言わせてくれなかった。それでも元級友か。
「一体、何があったのです」
 昔とはいえ四、五年前のユウヂンが尊敬していた魔術師は訊いた。
「……」
 外からはなにも窺い知れなかった。
「そう……それは、十五年前……」赤い男が天を見ながら。
「魔術が出そうな気がしたので同級生を四十人ばかり集め、広場で叫んだのだ、ブラッテーサンデーファイアースぺサルアタック・改神技、天をも焦がす紅蓮の炎よ、神の鉄槌・雷よ、なんかいい感じに我に力を与えたまえ、いやっふー、と。するとどうだろう?」
 知りませんがな。
「そよ風が吹き太陽は輝く。アリさんは行列ざんまい。何事もなく昼休みは過ぎていったのだ……」
 沈黙。
「そう……それは、合格通知が来た三日後のことだった……」
 ユウヂンは窓のほうを見、衣?に手を入れ、明日か昨日を向く。
「うれしさのあまり星になったオレだが、こうしてはいられない、明日から仕事だったのだと、家に帰った」
 どうやってだと口々に。
「明日から仕事だわっしょいとはしゃいでいたら、下の親にうるさいと言われたが、問題は次の日だ」
 どう見ても親は正論。
「歩いていると、悪意にまみれ邪悪に溢れる障害が次々と現れたのだ!」
 拳を握って空を見る。あ、ちょっと、曇ってきた。
「まず、硬き嫉妬という名の小石だった。あんにゃろめ、他人様のつま先とって、転ばせやがった。つい七回転して、近所の子供に手を叩かれた」
 類いない石だ。
「次に、その衝撃で靴がおかしくなった。いきなり足元がおぼつかなくなった。気付くと、足は、浅ましい陰謀という名の下水溝の底にあった」
 おかしいのは靴ではないとタスケタは思ったが言わなかった。
「そして今度は、何かが尾行していることに気付いた。振り返ると、そこにいたのは、名で体を表すように黒く、時々白い猛犬だった。やっこさん、突然足にかみついてきた。歯が刺さった。足が痛かったがなんとかなった」
 そこでふうと一息つくと、他四名の影響か、指を突き付ける。
「そういうわけで、栄光への道は閉ざされた!」
「知るか!」
 タスケタは、つい、鞄を投げた。だんだん帰ろう、というより逃げよう、そう思って用意したのだ。
 半開きの鞄はゆがんだ弧を描いて、床に落ちた。
(しまった!)
 タスケタの心と頭の中の、五億人のタスケタは一同一斉に叫び、頭を抱えた。自分の馬鹿め! と言いながら、十人ばかりの輪になって順に頭を叩きまわるタスケタらもいた。頭痛を訴えたのは、半分近くの二億三千人だった。タスケタの中にお医者様はいない。
 五億と一人の彼は、床か鞄かその中のものがたてた音に打ちのめされていたのだ。
 ぎいん、だか、ぐおん、だか、大体そんなかんじの鳴き声をあげて、鞄が膨らむ。皮地を押し上げて、蠢く。
 口のはしから、鉄色がのぞく。
 何度もぎいんぐおんと音を出しながら、鞄の表皮を上下させ、突起が光を求めるように移動した。
 やがて、全身を揺らし、それは這い出た。
「なんだこれは」
 先程まで倒れていた二人が起きて見ている。
 タスケタは手足のついた鉄の箱の元へ駆け寄った。
「どうだ、ユウヂン!」
 足元で?くように動くそれは、
「魔動本めくり機だ。これが魔術で人々の暮らしを助けるのも、案外、遠い未来ではない!」
 といいなと思っている。
 魔動本めくり機は腕を広げた。
 音が不快だ。家に帰ったら油をさしておこう。今日はもうどうしようもないが。
「がしょん言ってます!」
「これはもしや!!!」声に驚き飛びのく血まみれ。
「鉄の処女だ!」
「何ッ! 両腕で前にいる人間をまきこんで、体内にある無数の針で刺し殺すという、アレかッ!?」
「はいいいっ!」半ば、悲鳴。
 そんなことはしない。
「なあ、魔動本めくり機」
 ぎゅいん。
 またしても、男達は青ざめて。
「ぐわあ、なんて音だ」
「心と心の間をねじられたような足の痛みが、ぎふえッ!」
 てんやわんや。
「お前、悪くないよなあ」
 ぐわん。
「ぎひょおお」
「ぬべらっぽう!」
「きっとあの足で刺して動けない所を料理されるんだ!」
 五人はみじんも冷静でなくなっていた。
「く……。隊長、ここは退却しましょう」
 口走りながら、もうユウヂンが窓跡を飛び越えた。それを追う三人。
「しょうがない……。いいか、我々は死なぬッ! この世にインチキある限り、何度でも復活するッ! もしくは最寄りの第二、第三の我々が、それとなく現れ、貴様らに本気のラリアットとか正拳とかをたたき込むだろう……」ドアに飛び込みながら。
 血の足跡を残しつつ、扉を開けたまま玄関から出て去った。
 …………。
 何も言わぬまま、いまだ音をたてる魔動本めくり機を抱えていたタスケタだった。

 すっかり辺りも暗くなり、木々の間をゆく風の音しか聞こえなくなった。先刻までは帰る鳥が鳴いていたものだが、もう皆帰宅したのだろうか。
 そろそろ彼女たちの母も帰ってくる頃合いだ。あっさりとした塩味海鮮スープを用意し始める。幼い妹に刃物はと、マーリーンが海老を切る。殻ごとぶつりと断たれたものが十尾ほど。次はこれだ、とばかりに、かごからぬめり水を噴きうねる黒いものを出し、その背に包丁を当てた。
 ………。
 ビビアーナは妹の目を手で覆う。頭を振ろうと構わない。けして、黒っぽい紫の汁が出ただとか、柔毛のような襞を持つそれに包丁を入れて開けると、中は明るい赤に近かったのだとか、体を断たれてなお蠢くものをさらに……、という光景を見せてはならないと思ったからだ。
「これでいいわねっ」鼻歌と、鍋の中で何かが起きている物音が、時に重なり、調和し、響いた。
「おなかすいた? 二人とも」
「うん! すいたの」
「あたしは、あんまり」
 せっかくのごちそうなのに、と、妹に食べさせられないことを残念に思う様子のマーリーン。顔には飛び散った汁が一筋、明かりが反射して輝いた。
「コンフべべ黒血ナマコなんて、めったに食べられないのに」 
 ビビアーナは居間に逃れた。
 数十分ぶりのそこは、砂糖の入った紅茶のような加減の甘い香りがしていた。
 彼女の父、シュルトダインが煙草をくゆらかしている。しながら、うすい冊子を開き、低い卓に身を乗りだし見ている。
「これはタスケタさんがくれたものだ」
 手にとって見ると、『週刊魔術』と大きく書かれた冊子は体を折った。たわんで現れたページは。
「……あのね。あたし、学校へ行って、勉強したいんだけど……」
 それに視線を落したまま、ビビアーナは。

 角が折られた本のページには。
 どこかのだれかだったやつの夢と理想と野望があった。
モクジ
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